誰かの幸せな写真や報告を見たとき、
それがきれいであればあるほど、
なぜか目をそらしたくなることがある。
祝福したい気持ちはあるのに、
画面を見続けるのが少しつらい。
胸の奥に、
言葉にならないざわめきが残る。
それは嫉妬とも違うし、
悲しみとも少し違う。
ただ、光が強すぎて、
目が慣れないような感覚に近い。
その感じが生まれる場面
この感覚は、
静かな時間にひとりでSNSを見ているときに強くなる。
夜、部屋の灯りだけの中で、
誰かの家族写真や旅行の記録を眺めるとき。
職場で、誰かの良い知らせを聞いたあと。
親や親戚から、
知人の近況を聞いたとき。
自分の生活が止まっているわけではなくても、
まわりの幸せが、
少し速いテンポで流れているように見える瞬間がある。
その差が、
目に見えない距離として感じられる。
脳の中で起きていること
このとき、脳は「社会的比較」という働きを使っている。
人は、まわりの人の状態を見て、
自分の今を感じ取ろうとする。
SNSや会話の中では、
人の良い出来事が目に入りやすい。
行動経済学では、
目立つ情報ほど全体だと錯覚しやすいことを、
「利用可能性ヒューリスティック」と呼ぶことがある。
脳は、
たくさん見える幸せを「世の中の普通」として受け取ってしまう。
すると、自分の穏やかな日常が、
なぜか影に入ったように感じられる。
まぶしさは、
他人の光そのものよりも、
その並び方から生まれていることもある。
それが悪いわけではない
こうした反応は、
人が集団の中で生きるために備えてきた仕組みの一部だ。
まわりと比べて自分の位置を知ることで、
安心や不安を感じ取ってきた。
日本の社会では、
同じペースで進んでいることが、
心の安定につながりやすい。
だから、
少しでもズレを感じると、
その差が大きく見えることもある。
あのまぶしさは、
弱さではなく、
環境と脳の反応が重なった結果のようにも見える。
余韻
みんなの幸せがまぶしく感じるとき、
それは、
自分が暗い場所にいるという意味だけではないのかもしれない。
ただ、
光の集まり方が強すぎるだけのこともある。
そう思えたとき、
画面の見え方が、
ほんの少しだけ変わることがある。
無理に見なくても、
目を閉じなくても、
その間にある余白を感じられるような、
そんな違いかもしれない。
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