誰にも気づかれないまま、
一日が終わっていくことがある。
やることはやったはずなのに、
誰からも声をかけられず、
何も残らなかったような感じがする。
SNSに書いた言葉も、
仕事で出した資料も、
家でのちいさな頑張りも、
どこにも引っかからずに流れていく。
そのとき、
自分が少しずつ薄くなっていくような、
そんな感覚になることがある。
存在していたはずなのに、
見られていないと、
いなかったみたいに感じてしまう。
その感じが生まれる場面
この感覚は、
目立つ失敗や出来事がなくても現れる。
職場で、
自分の意見が特に反応されなかったとき。
家族の中で、
話したことが流されてしまったとき。
SNSで、
投稿にほとんど反応がつかなかったとき。
日本の暮らしの中では、
多くのことが「当たり前」として処理される。
やったことより、
やらなかったことの方が、
目につきやすい空気もある。
その中で、
静かに頑張った時間ほど、
誰にも見えないまま通り過ぎていく。
脳の中で起きていること
人の脳は、
「見られている」ことに強く反応する。
誰かの視線や反応は、
自分がこの場に存在しているという証のように、
脳に刻まれる。
行動経済学では、
人が他者からのフィードバックを、
強い価値として扱うことが知られている。
それは、
集団の中で生き延びるための名残でもある。
仲間から認識されていることは、
安全とつながっていた。
だから、
反応がない状態は、
脳にとっては「少し不確かな場所」に近くなる。
実際には危険ではなくても、
体のどこかで、
小さな不安が動き出す。
それが悪いわけではない
見られていないと消えた気がするのは、
人が人としてつながろうとする、
自然な反応に近い。
日本の文化では、
出過ぎないことや、
控えめでいることが重んじられる。
その一方で、
はっきりと認められる場面は少なくなる。
その環境の中で、
「誰かの目に映ること」は、
より大切なサインになる。
それを求める気持ちは、
弱さというより、
人の設計に近いもののようにも見える。
余韻
見られていないと消えた気がするとき、
その奥には、
「ここにいる」と確かめたい感覚があるのかもしれない。
その仕組みを知ることで、
同じ静けさが、
少し違った形で感じられることもある。
消えたように思える瞬間にも、
ただ見えなかっただけの時間が、
そこに積もっている。
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